2日まえの木曜日の夜に外を歩いた。
夏まっかさりのこの頃だけど、その夜は涼しく感じたからだ。
音も静かでなんか外を歩いたら忘れていることを思い出せる確信があった。
そして、思い出した。
昔から自然の音を聴いていた
そのことを忘れていた。
とても重要で自分だけの感覚だと思ってた、そしてこの感覚は大切にしたいと思ってた。
だが、ネット上でも人との会話でもこのことについては話さない。
話すと、次に自然の音を聴くことが遠のきそうな気がするからだ。
徳之島、鹿児島(鹿児島市)、沖縄(那覇市、浦添市)、徳島(徳島市)、東京(足立区)と住んできて、
その音、声の聞こえ具合には大きな差がある。
個人的には、沖縄(那覇市、浦添市)ではその声を全く聴くことができなかった。
一方、やはり徳之島がその能力を開花させた場所、出身地ということもあり、 深く耳をすませば、
場所によって、音がきこえて声が感じ取れる気がする。
自我はしっかりたもつこと
自然の音や声は、例えると、白い空間で大きな自然体とちっぽけながらも自我をもつ人間としての自分が、耳をすましながら、感じる様子だ、
気をつけるべきことは、自分はもちろん自然の一部だが、自我をもち多少抗っている人としても存在していることを、理解すること。
自我をなくし、自然に傾聴しすぎると、精神をもっていかれそうな気がする。
自然において不自然に近い人という生き物が自然の音や声をきくときに気を付けるポイントだと思う。
その先に
そんなリスクを避けながらも自然の声を聴くメリットはある。
自然の音や声を聴きながらも、自分自身を知ることができる。
自分自身がなにを思って行動しているのか、何がすきなのか、
そんなことにふと気づくことができる。
それは自然体の隣にいる自分がうけれる恩恵だ、先のリスクのその先には、それがある。
返信がありません