人を「教育する」という発想が、人を人でなくすとき
この文章を書こうと思ったきっかけは、
アニメ『僕のヒーローアカデミア』の最終話付近を観たことだった。
主人公は、数えきれないほどの残酷な行為を重ねてきた
「敵(ヴィラン)」のボスに対して、許しはできないって言った。
それでも最後まで、相手が「同じ人間である」という認識だけは捨てなかった。
その姿が、強く心に残った。
正直に言えば、私はときたま
あまりにも考えが合わない相手や、どうしようもない相手に対して、
一次的に「こいつは人じゃない」と一時的に考えることで
自分の心を苦しめることを避けることがあった。
だからこそ、
あれほど酷いことをされながらも、
相手を人間として扱い続けた主人公の姿が、余計に刺さった。
そして私は、
「相手をちゃんと人間として認識し、自分もちゃんと苦しもう(呪術廻戦の虎杖からも干渉された)」
そう思えるようになった。
現実世界で、アニメのように誰かを救えるわけでもない。
ただ、相手の人権だけは常に尊重すべき、という選択だ。
教育において、人生の主人公は誰か
この気づきは、私がずっと抱いてきた
「教育」という言葉への違和感とも、深くつながっている。
塾や学校で、「生徒を教育する」という表現はよく使われる。
だが私は、教育においての主人公は、常に生徒本人だと考えている。
私は大学時代に塾講師をしていた。
数学20点だった生徒が79点まで伸びたこともある。
その成果を評価され、店舗代表として本店の講習に招かれた。
現在もオンライン家庭教師をしており、継続率はトップだ。
それでも、私は
「生徒を教育した」とは一度も思ったことがない。
学力を上げたのは、生徒本人だ。
私は、成長のための視点や環境をサポートしただけに過ぎない。
どう成長するかを決める権限は、講師にはない。
それを決められるのは、本人だけだ。
夫婦関係で使われる「教育した」という言葉
同じ違和感を覚える場面が、もう一つある。
夫婦関係で、妻が「夫は教育してある」と語る場面だ。
この言葉には、
「夫の人生の主人公が、妻である」という前提が含まれている。
だが、夫の人生の主人公は、夫自身だ。
夫がどう生き、どう変わるかを決めるのは夫であって、
妻にできることがあるとすれば、
成長を支え、変化を見守ることだけだ。
もし夫が
「妻を大切にする人生を生きたい」と
自由意思で選んだのであれば、それは何の問題もない。
問題なのは、
自分に都合よく動く存在に変えたことを
「教育した」と表現する価値観そのものだ。
人権と「人生の主人公」という思想
日本国憲法は、
自由権(公共の福祉に反しない限り)と生存権を保障している。
その根底にあるのは、
一人ひとりが、自分の人生の主人公であるという考え方だ。
だから私は、
他人の人生の主人公を自分に置き換えようとする行為は、
思想的には人権の否定に近いと感じている。
「教育する」という言葉の危うさ
「教育する」という言葉は、本来、
家畜やペットなど、
人の都合に合わせて行動を変えさせる対象にも使われてきた。
共存のために、動物に一定の訓練が必要な場面はある。
それを全否定するつもりはない。
だが、その発想を人間に向けた瞬間、
それは決定的におかしなものになる。
人は、誰かの所有物でも、調教対象でもない。
人を人でなくさないという選択
『僕のヒーローアカデミア』の主人公は、
敵を許さなかった。
それでも、相手が人間であることは、最後まで捨てなかった。
それは、理想論ではなく、
自分が人として生きるための選択だったのだと思う。
歴史を振り返れば、
一人ひとりに人権を認めることによって、
社会はようやく安定してきた。
だから私も、
たとえ考え方が合わなくても、
たとえ憎くても、
相手の人権だけは尊重したい。
まとめ
法律(日本国憲法)と、過去の自分と未来の自分から見てかっこいいと胸をはれる自分でいれるかを必須の軸としてものごとの判断をする自分に、今回の人権の内容は大きく刻まれたように思う。
人を「教育する」対象にしないこと。
人を人として扱い続けること。
それは、相手のためだけでなく、
自分が自分の信念に正直に生きるための選択なのだと思う。
あとひとつ自分メモ
“考え方は「事実」でなく「手段」にすぎない、その1つ上の階層に目標がある”
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